神に従うことは宗教組織と関係ありません

2015/07/02 2

JW ものみの塔協会

t f B! P L

個人と宗教組織

聖書は、アダムの全ての子孫への神からの手紙です。(テモテ第一 2:4-7)

それで、望むものは誰でも聖書を読み理解し、聖書の真理に信仰を持つことができます。

それは、神のご意思です。

しかしながら、私たちはまだサタンが支配する世に生活しています。(ヨハネ第一 5:19; コリント第二 4:3-5)

また、エホバ神は真の崇拝者を求めています。(ヨハネ 4:23-24; ヘブライ 11:6; テサロニケ第二 3:2; ヨハネ 6:44, 65)

啓示も含めて聖書の内容の全ては、宗派に関わらず聖書を所有する全ての人に宛てられています。
キリスト教のどのグループも、啓示の7つの会衆に対する手紙を自分たちに適用していると思います。

キリスト教のそれぞれの教会、グループ、組織は、自分たちが「神の家」または「キリストの追随者」であると思って、そう告白しています。それで、キリスト教の各グループは、自分たちの理解やクリスチャンとしての活動に関し神に対して責任があります。それは、個々の人々が神に対して責任があるのと同じことです。

キリストが戻られるとき、裁きがいわゆる「神の家」から始まると、それぞれのグループまたは組織は思っています。それで、み使いたちは世界のキリスト教の中で雑草から小麦を分けることになります。

その分ける基準は、邪悪への憎しみや、他の人への思いやりのようなものと思います。(エゼキエル 9:4; マタイ 5:7, 9:13, 12:7, 14:13, 22:23; ヤコブ 1:27, 2:13; ペテロ第二 3:11; ローマ 2:13-16)

コリント第一 13:12 で「現在わたしが知っているのは部分的なことです」と書かれているとおり、教理は分ける基準とはならないでしょう。

キリストを信じるものはキリストを主と見なしていますので、エホバの証人も含めて全てのキリスト教信者たちは、マタイ 7:22 に書かれているようになるでしょう。

マタイ 7:22
その日には,多くの者がわたしに向かって,『主よ,主よ,わたしたちはあなたの名において預言し,あなたの名において悪霊たちを追い出し,あなたの名において強力な業を数多く成し遂げなかったでしょうか』と言うでしょう。

イエスは、「主よ、主よ」と言うもの、つまりクリスチャンを自称する全ての者を分ける対象としています。

マタイ 7:21
わたしに向かって,『主よ,主よ』と言う者がみな天の王国に入るのではなく,天におられるわたしの父のご意志を行なう者が[入る]のです。

み使いたちは、世界中のクリスチャンと称する者の中から「神のご意思を行なっている者」を集めるでしょう。

そしてエホバ神は、愛ある親切と公正と儀を行なう者を喜ばれます。(エレミヤ 9:24)

組織宗教でなく神に従った人たち

高度に組織化された宗教組織の中にあっても人は聖書の真理に答え応じることができることを考えてください。

ウィリアム・ティンダル (William Tyndale)

16世紀のプロテスタント宗教改革の指導的な人物
彼は、ヨーロッパでギリシャ語の新約聖書を入手できるようにしたエラスムス (Erasmus) と、ローマーカトリックの修道士マルティン・ルター (Martin Luther) により影響を受けました。
ティンダルの聖書は、ヘブライ語とギリシャ語写本から直接翻訳された初めての英語の聖書でした。その最初の英語の聖書は印刷機を活用して出版され、最初の改革の新英語聖書となります。

彼は神学をオックスフォード大学で学びました。

しかし、彼はその当時の宗教的な環境をについて不満を述べています。
「彼らは、異教徒の学習を8-9年して、偽りの原理で武装してからでないと誰も聖書を見ないように制定している、それによって聖書の理解を全くできないようにしている。」

ティンダルは、1521年ごろジョン・ウォーシュ (John Walsh) 卿の家の牧師 (chaplain) 、また彼の息子の養育係になります。彼の意見は仲間の聖職者と論争となります。そして1522年ごろ彼は、正式な訴訟なしにウィスター (Worcester) の主教管区の首相ジョン・ベル (John Bell) の前に出頭します。

ベルとその他の指導者たちによる厳しい聴聞の後、またリトル・サードブリー (Little Sodbury) におけるティンダル時代の終わりに、ジョン・ホックス (John Foxe) は、ティンダルに「ローマ教皇の掟がないより、神の律法がない方がましである」と断言した学識のある、しかし不敬な僧職者との論争について描写しています。

ティンダルはこう返答します。
「わたしは、ローマ教皇と全ての彼の律法を拒否します。もし神がわたしの命を助けてくださるなら、何年もしないうちに、鋤を引く少年があなた方よりも、もっと聖書を分かるようにします。」

ティンダルの神学上の見方
ティンダルは聖者に対する祈りを非難しました。彼は、信仰による儀、信者としてのバプテスマ、キリストの帰還、そして魂は不滅でないことについて教えました。

マルティン・ルター (Martin Luther)

プロテスタント宗教改革の象徴的人物、16世紀のカトリック修道士

彼は、神による罪の懲罰からの放免がお金で買えるとの主張に強力に異議を唱えました。1517年の「95ヶ条の論題」で免罪符の販売人ヨハン・テッツェル (Johann Tetzel) と対決しました。1520年の教皇レオ10世 (Leo X) の要求と、1521年のウォルムス (Worms) 地方議会における神聖ローマ帝国皇帝チャールズ5世 (Charles V) の要求による全ての彼の出版物の撤回の拒絶は、教皇による破門とローマ帝国による犯罪者の宣告を招きました。

ルターは、救いが善行によって獲得されるものではなく、ただ神の恵み (grace) による無償の贈物として罪の贖い主であるイエスキリストに対する信仰をとおして得られると教えました。彼の神学は、聖書だけが神により明らかにされた知識の源であると主張することにより、ローマカトリック教会の教皇の権威に挑戦しました。それは、また全てのバプテスマを受けた信者は聖なる祭司職であると見なすことにより、聖職尊重主義に反対しました。

ルターにとって推論は、神に対してではなく、人間や公共機関に対する疑問に用いられるものでした。人間は神による啓示をとおしてのみ神について学ぶことができると彼は信じていました。それで、聖書は彼にとってますます重要なものとなりました。

彼は、使徒パウロがかってユダヤ教に熱心であったように、カトリック教会の伝統に深入りしていました。(ガラテア 1:14)

ルターは、断食、長時間の祈り、巡礼、そして頻繁な告白などに打ち込み修道士の生き方に献身していました。後日彼は「修道士として天の報いを得られる者がいるとすれば、私は正にそのうちにいます。」と述べています。

ルターはこの時期の生活を深い霊的な絶望のひとつと描写しています。彼は「私は救い主で慰めであるキリストとの接触を失い、またキリストを私の哀れな魂の看守また絞首刑執行人としてしまいました」と述べています。

■ 上記の2つの例は、宗教組織によって強要される偽りの教理に囲まれていたとしても、人は確信を与える聖書の真理によって導かれ得ることを示しています。

それですから聖書の真理は、鉄を引寄せる磁石のようです。それは、神を本当に求めている人々を引き付けるでしょう。また神に傾く人たちは、真理を求め続け、探し続け、たたき続けるでしょう。(マタイ 7:7-11)

最終的にそれら真理探究者たちはクリスチャンにとって「より重要なこと」を見出すでしょう。

クリスチャンにとって「より重要なこと」

マタイ 7:12
「それゆえ,自分にして欲しいと思うことはみな,同じように人にもしなければなりません。事実,これが律法と預言者たちの意味するところです。

ガラテア 5:14
律法全体は一つのことば,すなわち,「あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない」の中に全うされているからです。

ヤコブ 2:8
そこで,もしあなた方が,「あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない」という聖句による王たる律法を実践しているのであれば,あなた方はりっぱに行動していることになります。

コリント第一 10:23-24
すべての事は許されています。しかし,すべての事が益になるわけではありません。すべての事は許されています。しかし,すべての事が築き上げるわけではありません。

ルカ 10:25-37
25 さて,見よ,律法に通じたある人が立ち上がり,彼を試そうとしてこう言った。「師よ,何をすれば,わたしは永遠の命を受け継げるでしょうか」。26 [イエス]は彼に言われた,「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読みますか」。27 彼は答えて言った,「『あなたは,心をこめ,魂をこめ,力をこめ,思いをこめてあなたの神エホバを愛さねばならない』,そして,『あなたの隣人を自分自身のように[愛さねばならない]』」。28 [イエス]は彼に言われた,「あなたは正しく答えました。『このことを行ないつづけなさい。そうすれば命を得ます』」。
29 しかしその人は,自分が義にかなっていることを示そうとしてイエスに言った,「わたしの隣人とはいったいだれでしょうか」。30 イエスは答えて言われた,「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中で,強盗たちに襲われました。彼らはその衣をはいだうえに殴打を加え,その人を半殺しにして去って行きました。31 さて,たまたま,ある祭司がその道路を下って行くところでしたが,その人を見ると,反対側を通って行ってしまいました。32 同じように,ひとりのレビ人もまた,そこまで来て彼を見ると,反対側を通って行ってしまいました。33 ところが,その道路を旅行していたあるサマリア人がやって来ましたが,彼を見て哀れに思いました。34 それで,その人に近づき,その傷に油とぶどう酒を注いで包帯をしてやりました。それから彼を自分の畜獣に乗せ,宿屋に連れて行って世話をしたのです。35 そして次の日,デナリ二つを取り出し,それを宿屋の主人に渡して,こう言いました。『この人の世話をしてください。そして,何でもこれ以外にかかるものがあれば,わたしがここに戻って来たときに返しますから』。36 これら三人のうちだれが,強盗に襲われた人に対して隣人になったと思いますか」。37 彼は言った,「その人に対して憐れみ深く行動した者です」。するとイエスは言われた,「行って,あなたも同じようにしてゆきなさい」。

祭司やレビ人は神殿で神に仕える者たちです。
一方、サマリア人は異教徒とみなされている者です。

真の神の崇拝者ではないサマリア人は神の象をより良く表しました。
彼は、祭司やレビ人のような宗教家ではありませんでした。

ヤコブ 1:25, 27
25 しかし,自由に属する完全な律法の中を熟視し,[それ]を守り通す人,その人は,聞いてすぐに忘れる人ではなく,業を行なう人となっているので,[それを]行なうことによって幸福になります。
27 わたしたちの神また父から見て清く,汚れのない崇拝の方式はこうです。すなわち,孤児ややもめをその患難のときに世話すること,また自分を世から汚点のない状態に保つことです

ヤコブ 2:12-13
12 自由の民の律法によって裁かれようとしている人のようにいつも話し,またいつもそのように行動しなさい。13 憐れみを実践しない人は,憐れみを示されることなく[自分の]裁きを受けるのです。憐れみは裁きに打ち勝って歓喜します。

クリスチャンのとって重要なことは、宗教組織の活動ではなく、良心的に神の象を反映することです。

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プロフィール



1972年にバプテスマを受けてクリスチャンになりました。

その後、エホバの証人として宣教活動を40年ほど行い、長老のときに「ものみの塔協会」の方針と異なる立場をとったために長老を削除されました。

長年のエホバの証人としての人生は「ものみの塔協会」の崇拝の様式とキリストの教えとの不調和を経験することになり、「ものみの塔協会」の始まりからの歴史をインターネットを用いて調査し、この団体がロスチャイルド資本によるシオニズム運動の器として始まったこと、宗教組織を利用したロスチャイルド資本の国際投資企業であること、小児性愛者の不適切な扱い、預言や教理上の破綻などの腐った実を知りました。

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